2009年11月03日

第7章「新しいMBA?」

第6章まで、「これでもか」と言わんばかりにもMBAを軸に置いたビジネススクール批判を繰り広げてきたこの本であるが、この章あたりから幾分風向きが変わってくる。正直なところ、前章まではある程度肯ける部分がありながらも、読んでいて不毛な感が付きまとうが、妥当な対案を示し、あるべきビジネス教育の姿を模索しようというミンツバーグの思いがあるべき姿で表現されてくるようになってくる。論述のくどさはミンツバーグの特質のようなものらしく、別の本(「戦略計画―創造的破壊の時代 The Rise and Fall of Strategic Planning」)の翻訳でもいまどきにしては珍しく部分的な省略・抄訳が行なわれているというぐらいだが、はっきり言って、6章まではいまの4〜5分の1程度の分量で充分な内容だな^^;。

この第7章では、前章までに挙げられているようなビジネススクールの弱点を受けて、MBA課程を置いたビジネススクール側が行なってきた改革を紹介し、それをまたミンツバーグが批判するというのが前半。このあたりは特に新味がない。インターネットや電子メディアなどのテクノロジーを活用したものと教育における国際化を紹介した部分が若干面白いぐらいか。そういえば、自分の通っていたビジネススクールは、出席講義の振替などをウェブから出来たけれど、意外にローテクだったよなぁ…とか思ったものだった^^;。また、日本のビジネス教育がかなり評価されており、第2次世界大戦後の日本の目覚ましい発展の原因をここに求めている。自分が以前読んで興味深かった「松下電器の経営改革」(有斐閣)を手がけた一橋大学の伊丹敬之教授の名前も見えるが、この人がミンツバーグに宛てた手紙には「一橋大学のMBAプログラムは、それだけでマネージャーを養成できる課程ではないということを学生たちに伝えている」と書かれていたというエピソードが紹介されている。

後半に入ってくると、イギリスで起こっている「実務と教育を融合させようとする」興味深い試みの紹介に多く筆が割かれている。実際にマネージャーとなっている人物が、実務でぶつかった課題をテーマとしながら学んでいこうとするものだ。このあたりから、ミンツバーグの言いたいことが分かってくるような感がある。要は「実際に使うわけではない知識は要らないし、かえって有害な場合もある」ということだろう。このあたりは、MBAでなくても資格の勉強などでしばしば言われるテーマであり、自分にとっても身近な課題である。個人的には、このあたりの課題は、乱暴に言ってしまうと「教えることは出来ない」と思っている。前回でも書いたように、「本人が学ぶことに何を求めているのか? ツールに過ぎないのか、価値観を変革することか」という心がけに尽きるのだと思う。もちろん、こう言ってしまっては身もふたもないが^^;。強いて言えば、「志を育てる」教育がまず最初に必要ではないか?というぐらいのことか。


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2009年11月01日

6.4「垂直統合戦略のための組織」

この節は「垂直統合戦略のための組織」と題されているが、実質的には必ずしも垂直統合戦略の場合限定で書かれているわけではないように見受けられる。ともあれ、第5章で言及された企業組織における重要な3要素、「組織構造」「マネジメント・コントロール」「報酬体系」と関連づけて論じられている。

まず組織構造。ここではU型組織、一般には職能別組織と言われているものが扱われている(「U」とはUnitary=中央集権型の頭文字を取ったもの)。「CEOに負荷がかかる」「意思決定においても情報収集が不完全になったり各マネージャーの協力も限定されたものになったりしがちである」「セクショナリズムが発生する」といった、この組織形態でよく言われる弱点が言及されている。垂直統合で企業内に統合された機能については必要な協力関係がとられる必要があるといった、ごく普通のことが書かれている。

ついでマネジメント・コントロール。ここで重要視されているのは予算プロセスと経営会議である。予算プロセスについては、アカウンティング的な指標に基づいて判断しようとするとマネージャーたちが短期的な業績に拘り長期的な視野に欠ける結果となるため、ファイナンス的な経済価値によって判断すべきだとされる。また業績評価に定性的な内容も含めるべきだという。経営会議については、意思決定に関する情報収集や企業活動のモニタリングといった面が重視されているようだ。

報酬制度。労働市場が完全競争の場合と不完全競争の場合に分けて論じられているが、実質は不完全競争であるとされており、こちらが主たる内容となっている。まず、スキルや能力について。ある従業者に、ある特定の企業でしか価値を持たない能力やスキルを持たせたい場合は、金銭的負担を強いられることとなる。職務ポジションについて。魅力のない仕事に就かせるには高い報酬を必要とする。非金銭的な報酬を備えることによって、すべての報酬を金銭で賄おうとするよりも、結果として低コストで済む場合もある。それは「雇用保証」「昇進」「その企業に属することがステイタスの証明となるような名声」「フリンジ・ベネフィット」といったものである。また、成果型報酬というのもある。しかし、個人的には、このなかに「仕事そのもののやりがい」「自己実現」といった要素が希薄なのに疑問を感じた。これは第1章でミッション・ステータスについて言及しているバーニーであるからこそ、より大きく扱ってほしい要素であるのだが。

ともあれ、最初の組織構造に関する部分でいくらか言及されているのを除くと、全体的な記述としては垂直統合戦略との関連性はいささか薄いように感じられた^^;。


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2009年10月25日

6.3「垂直統合と持続的競争優位」

この節は、前の節で挙げられたようなそれぞれの統治メカニズムが、どう競争優位に結びついていくのかということについて書かれている。しかし、この節はとかく抽象度が高く、文意を取りづらい箇所が目立つ--;。あるいは翻訳のせいもあるのか?

統治メカニズムから競争優位を得るための3つの要素は以下のとおりであるという。

1)不確実で複雑な経済取引を理解する能力
2)異なる統治形態を知覚し実行する能力
3)機会主義的に行動する傾向

これらについて、VRIOフレームワークを用いて分析した結果、すべてにYesとなった場合、持続的競争優位の源泉たりえるだろうということだ。

1)は平たく言えば、「業界分析能力」である。これは従業員の知的能力を高めること、またそれを活かせる体制が整っていることを含む。こういった属性は得てして模倣困難であり、少なくとも一時的には競争優位につながるとされる。

2)は乱暴にまとめると、「統治能力に優れており、意思決定が早かったり的確に執行出来たりする」といったところか。これらも、企業の歴史的経緯や企業風土に起因したものであれば、容易には模倣できない。

3)は1)や2)と比べると、やや外的な要因といえる。「機会主義」というのは前にも触れたとおり、「足元を見られる」というか「付け入られる」というような意味を持つ用語だが、こういった性向を持つ相手と取引をするということは、そうでない相手と比べてコストが余計にかかるといえる。


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2009年10月24日

このところ、簿記の勉強と会社の業務を両立させるのに手一杯で、blogまで手が廻らない--;。
ミンツバーグの本は現在第9章を読んでいる途中で、コラム連載が追いついていないという意識があるので、無理をして執筆の時間を作ったが、本日も疲れているせいか、どうも書いていて散漫になっているような気がする^^;。もしかしたら、あとで書き直さなければならない?(後記:とりあえず若干書き足しますた)

第3〜6章「間違った結果」

第3章から第6章までは、「間違った人間」に「間違った方法」で教育を施した結果、社会にどういう悪影響を及ぼしたか、それを4つの観点から論述している。個人的にはこの部分は一括で扱ってしまっていいような気がした。ヘンリー・ミンツバーグといえば、海外では「ピーター・ドラッカーに比肩する賢人」とまでもてはやされているようだが、そんな「大人(たいじん)」がなにもそんな重箱の隅をつつくような論点まで逐一展開しなくても…などと、読んでいて正直感じたものだ^^;。ここではごくかいつまんでということでいいと思う。

ミンツバーグの言う、MBA課程のもたらす「間違った結果」とは、おおむね以下の4点。
1)学生の誤ったエリート意識
2)実務を知らない、あるいは実務を軽んじた人間による、実態を乖離したマネジメント活動
3)2)に近いが、意思決定における官僚的性向
4)経済至上主義でCSRに背を向けた、非倫理性

ご丁寧にも、ミンツバーグはハーバード・ビジネススクールを優秀な成績で卒業しCEOになった19人のその後を追跡調査し、成功したといえるのはせいぜい4、5人程度でしかないのを証明してみせる。また、ヒューレット・パッカードのカーリー・フィオリーナ、アップル・コンピュータのジョン・スカリーなどが槍玉に挙げられている。個人的にはスカリーって結構好きだったんだけどなぁ^^;。また、エンロンがMBA取得者を積極的に採用していたことも例示している。

この長大なMBA批判論を読んでいて顕著に感じられたのは、「マネジメントをつかさどる者は実務においても優れた資質を持っている必要がある」というこれまでの章でも言及されていた命題(これは「意思決定における判断材料を的確に得るため」という面のほか、「リーダーシップにおいて説得力を増すため」という面もあるように見受けられる)のほかに、「倫理観とかスピリッツといったものはビジネススクールでは教えていない」ということか。だから、与えられるツールは同じであっても、あとでそれをどう活かしていくかは所詮本人の資質任せになっているように思える。

前者について。自分の通っていたビジネススクールのカリキュラムと中小企業診断士の試験科目を比較して気づくのは、ビジネススクールでは「運営管理」という観点が欠落しているということである。もちろん、このあたりは業種・業態によって求められる知識が異なるとも考え得るし、一概にビジネススクールを責められないとも言える。しかし、その点を看過してビジネススクールで得られる知識を過大評価してしまうのは問題であるし、ビジネススクールとしてもその問題点を意識していなければならないというのは言えるだろう。

後者について。これは前回にも言及した、ビジネススクールで出会ったクラスメイトの多くを見ても、それなりに分かるような気がする。個人個人としてのことは知る由もないが、講座が終わってからのクラスの、「学び」という本来の趣旨からみる凝集性という点ではお世辞にも高いものとは言えなかった。その理由を推察するに、彼らは単に「仕事で使うツール」を探しに来たに過ぎないのか、それとも人生への認識を変えるような体験を求めに来たのか。その点に尽きるのではないか?などと思ったものだ。自分の感じたところで言うと、大半は前者だったのだろうと思っている。だから、「ツール」さえ得てしまえば目的は果たしてしまったと決めつけてしまう。その結果、付き合いが自然消滅してしまうか、「ただの遊び友達」と化してしまうか、どちらかになってしまっているという傾向が顕著なのだろう。傲慢な言い方を許してもらうなら、ビジネススクールは彼らに本来の趣旨での精神的な変化をもたらすことが出来なかった、ということだ。

ミンツバーグのマネジメント論には意外と日本の企業風土には受け入れられやすいような要素が目立つし、ミンツバーグ自身、日本の企業のビジネス教育について好意的に扱っている記述が散見される。もっとも、MBAというものの浸透と並行して日本の企業風土も変わってきているという印象がある。例えば「株主価値」への意識などもそうだ。ピーター・ドラッカーは「企業とは何か」のなかで、「企業が社会的組織であるのに対して、株主のほうは一時的・派生的な存在」だとしているが、このくだりを読んでいて、「株主様」という言葉に象徴されるような近年の風潮とは整合しない?という不自然な印象を受けたものだ。この「MBAが会社を滅ぼす」を併せて読めば、MBA課程が「ツール」重視になっていて、ドラッカー的な意味ではむしろ逆行になっているのだというミンツバーグの主張が分かるような気がする。例えて言うなら、ミンツバーグの論理は、松下幸之助が「経営の神様」として尊重されるような「古き良き」日本の企業風土への回帰を趣旨としているようなところがあると思う。


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2009年10月12日

6.2「垂直統合の経済価値」

この節は「経済価値」という言葉を含んでいるが、基本的には「垂直統合をするかしないか」の判断基準について書かれている。

ある経営資源を調達する場合、取引の必要が生じる。外部から調達する場合を市場による統治といい、内部から調達する場合を階層組織による統治という。この階層的統治を垂直統合という。この両者の中間に属する場合はそのまま中間的統治だ。

取引費用経済学によると、これらの統治メカニズムの目的は「機会主義の脅威とコストの双方をともに最小化する」ところにあるとされる。「機会主義」とは、平たく言えば「足元を見られる」ことである。企業内部から経営資源を調達する場合、不利な条件を押しつけられることなく随意に得ることが可能であろうが、一方でその管理するコストを賄わなければならない。外部からの取引による調達ではそのコストは不要だが、一方で調達に対するコントロールが思いのままにならないリスクがある。そういうことであろう。

垂直統合によらない場合の統治メカニズムは、次の4つ。

1)スポット市場契約
2)完備契約
3)逐次契約
4)関係性に基づく契約

1)は、不利な条件を押し付けられそうになった場合はすぐ他の業者にスイッチできるといったような、完全競争が成り立っている場合でしか成立しない。2)は契約によって機会主義を回避できるよう条件を整備しようとするものだが、想定外の事態が起こるというリスクは常に存在する。3)は期間を限定した契約によって2)における契約のリスクを軽減しようとするものだが、その契約更新の際、どちらかに有利不利が生じる可能性がある。4)は人間関係に基づく信頼性によって契約の弱点を補おうとするものだ。

垂直統合による場合の統治メカニズムは、次の3つ。

1)内部市場
2)官僚制
3)クラン

1)はもっとも緩やかなメカニズムであり、多角化した事業部間での取引のようなもの。2)は、取引を規則という形で明確に定めて運用しようとするもの。3)は、共有された価値観なり人間関係に頼る形で運用しようとするものである。

垂直統合をするべきか、せざるべきか。取引費用経済学における考え方についてはすでに言及したが、そのほかに、リソース・ベースト・ビューにおける考え方とリアルオプションにおける考え方が挙げられている。

リソース・ベースト・ビューにおいては、「持続的競争優位を持つプロセスについては垂直統合せよ」という点では取引費用経済学と一致するが、「調達する経営資源の源泉が自社とは異なる企業文化に基づいている場合、垂直統合を実施してしまうとその意義が失われてしまうため、あえて外部調達を選択する場合もある」という見方をする点が取引費用経済学とは異なるという。

また、柔軟性とコントロールのしやすさを二つながら実現する試みとして、リアルオプションという概念も紹介している。これはストックオプションのような考え方を技術や設備などに導入したものだという。意思決定の柔軟性を確保し、不確実性をカバーするためには垂直統合によらない選択の方が好まれるとされる。

これらの判断基準は両立できない部分を抱えているため、「垂直統合の意思決定について、統合された実践的理論は存在しない」というのが結論となっている。置かれている環境によって、選択される理論は異なっているとされている。


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2009年10月04日

第2部 事業戦略編

ようやくバーニー「企業戦略論」講読も上巻が終わり、中巻に入ることとなった。

これまででも、SWOT分析、ファイブフォース分析、バリューチェーンといった経営戦略においてはおなじみの分析ツールからリソース・ベースト・ビューにVRIOフレームワークというバーニーならではの経営資源に関する事項、企業パフォーマンスに関する捉え方など、概論としては充分な内容があったように感ずる。しかし、それでもまだこの本の3分の1でしかない。バーニーはこれについて、第6章の導入部において「『戦略の中身』が、第2部(訳書における中巻)、第3部(訳書における下巻)のテーマである」と述べている。これから講読していこうとする中巻では「事業戦略」が扱われている。バーニーは事業戦略について「企業が『特定の市場もしくは業界』で取ることが出来る具体的な行動」であると書いている。参考までに、この「事業戦略編」の各章の見出しを以下に列挙してみる。

第6章「垂直統合」
第7章「コスト・リーダーシップ」
第8章「製品差別化」
第9章「柔軟性」
第10章「暗黙的談合」

垂直統合、コスト・リーダーシップ、製品差別化についてはいまさら解説を要しないだろう。暗黙的談合は、すでに第3章〜第4章にかけて扱われた用語である。明示的に談合するわけではないが、「相手の様子を見ながら自分も行動する」といった感じに、消耗戦を避けながら結果的に協調した行動をとる…といった選択である。柔軟性というのは一見分かりづらいが、ザッと見た感じ、意思決定においてオプションを選択するうえの柔軟性を指すようだ。ファイナンス的要素が濃いという印象である。

6.1「垂直統合の定義」

まず、第6章において、垂直統合が扱われる。この節では、垂直統合がどういうものを指すか、その定義が簡単に書かれている。ごく短い導入部である。

ここでは、バリューチェーンと関連づけて記述されている。自社としてバリューチェーンのなかのどれだけのステージ(活動)に携わるか、その数が多いほど垂直統合度は高いということだ。また、より製品やサービスを享受する最終顧客に近い方のステージへ垂直統合度を高めることを前方垂直統合、遠い方のステージへ垂直統合度を高めることを後方垂直統合であるとも言っている。それぞれ、川下統合・川上統合とも言われるが、この本では出て来ていないようだ。

また、垂直統合度は、大まかなところを売上高付加価値率から推察することが出来るとしている。それは以下のような計算式である。

(付加価値−(純利益+法人税))÷(売上高−(純利益+法人税))

付加価値は以下の計算式とされている。チョット長いが^^;。

減価償却費+無形固定資産と繰延資産の償却額+固定間接費+支払利息+人件費および関連費用+年金および退職金積立費+法人税+税引後純利益+賃貸料


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2009年10月01日

第2章「間違った方法」

この章は、まずケースメソッドを始めとしたビジネス教育の歴史から説き起こし、次いでそのビジネス教育がもたらした弊害、次いでケースメソッドの持つ欠点について論じられている。前半のビジネス教育の歴史に関する記述も確かに面白いが、どちらかというとやや薀蓄に偏ったような印象がある^^;。そのため、この場においては、これまでのビジネス教育の弊害およびケースメソッドの弱点についてを中心に言及していこう。

第1章において、ビジネス教育においては「マネジメント=分析」と誤解されていると論じられている。その弊害を推し進めた最大の「戦犯」として挙げられているのが、かのマイケル・ポーターである。ここでピーター・ドラッカーの言葉が、ミンツバーグにとっての重要な論拠として引用されている。ドラッカーは戦略について、ミッション・マーケット・製品・プロセスを一貫した「ビジネスの理論」によって統合したものだと言っているという。だから、ポーターのごとき「分析→戦略立案」という順序は考えられない。また、「戦略」という言葉が矮小化され、マネジメントによって統合されるべきマーケティングや財務、ITといったさまざまな機能がバラバラにされてしまった…ということのようだ。自分は会社で個人情報保護マネジメントシステムに携わっているが、会社では環境マネジメントシステムも存在しており、双方を一貫したコントロールが適格に出来ていないという現状を見ているだけに、言いたいことは分かるような気がする。また、ポーター的な考えにはソフト・スキル(コミュニケーションやリーダーシップの能力)が欠落していると言いたいようだ。このあたりは、やはり自分が講読しているバーニーの「企業戦略論」において、「ポーターに代表される戦略論は内部環境を軽視している」としているのと近い。

ミンツバーグは必ずしもケースメソッドを完全否定しているわけではない。過大評価されているのが問題なのだとしている。そこで挙げられている弱点のなかには「ケース自体が教えたいテーマを扱いやすくするため先入観を持って書かれる」「教師が講義の運営に都合のよい発言を取り上げたがる」といった運用上の問題もあるし、なかにはいささかうがった見方も含まれているようだが、自分が理解したところによる最大の問題は、ケースメソッドでは所詮上記のような「分析」についてしか取り扱えず、運用についてはほとんど身に付けられるものがないというところだろう。つまり、PDCAサイクルで言えば、ケースメソッドではせいぜいDoに取りかかり始めるところまでしか考えることが出来ない。CheckやActについて多少の想像は出来なくもないが、実際に対処するスキルを身につけるうえではあまりに薄弱だ。マネジメントのサイクルのうえではこちらの方がずっと重要であるのにも拘らず、である。この場面においてはソフト・スキルが求められるという点でも、上記の論理と整合性がある。然るに、ケースメソッドをこなせばマネジメントのスキルは向上すると誤解されている。所詮、机上の空論は机上の空論であり、論理を組み立てることは出来てもソフト・スキルの向上には資するところはないと認識しなければならないということだろう。

やや論点としてはずれるのかもしれないが、ここでも、自分が通った某ビジネススクールでの経験を思い出させる。このスクールでは120人程度と一緒のクラスでケースメソッドを行なったが、むろん講座のあいだは熱心に取り組んでいるものの、いったん講座が終わってしまったら持続的に課題を求めて取り組んでいこうとするクラスメイトがごくわずかに過ぎないという現象を目の当たりにしたものだ。これはモチベーションの問題ではないのかもしれない。「ケースメソッドさえやれば実践したようなもの」という誤解を植えつけられているため、「すでに勉強した目的は果たした」と思い込んでいるきらいがあるのではないか? ケースメソッドには幾分「応用編」的なイメージがあるものの、所詮シミュレーションに過ぎない。少なくとも、この限定条件を明確に意識させる必要はあるのではないか。


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2009年09月27日

このところドラッカーだミンツバーグだ、と何やら手広くなっているが^^;、ふたたびバーニーに戻ろう。しかし、従来の「ほぼバーニー1本槍」ではこのblogの展開として物足りないというのも事実である。他にも腹案があるところであるし、このblogをてこ入れし、より有益なアクションに結びつけてゆきたいと考えているところが大である。

5.5「VRIOフレームワークの限界」

リソース・ベースト・ビューを扱ったこの章の締めくくりは、VRIOフレームワークの持つ弱点について言及されている。その弱点とは以下の3つであるという。

1)持続的競争優位と環境の激変
2)経営の影響
3)分析の単位

1)について。持続可能なコンピタンスは絶対不変のものとはいえない。シュンペーター的イノベーションの前には無力となるということである。リソース・ベースト・ビューは業界の競争ルールが比較的安定している環境においては有効であるが、実際にはシュンペーター的イノベーションが数多くの業界において起こっている。ここで思い出されるのは、クリステンセンの提唱した「イノベーションのジレンマ」という言葉であろう。バーニーとクリステンセンとでは幾分「イノベーション」という語の使い方においてニュアンスが異なるようだが(バーニーがここで言っている「イノベーション」とは、クリステンセンの言う「破壊的イノベーション」に近いのだろう)、クリステンセンの言う「持続的イノベーション」はバーニーがここで「持続可能なコンピタンス」と書いているものと近いように感じられる。良くも悪くもこのコンピタンスには慣性の力が強く働くということだろう。

2)について。すべての経営資源において、持続可能なコンピタンスを見出せないという企業も少なくない。「得られるコストが小さくて済むような経営資源が競争優位を構築できる可能性は低い」という、「模倣可能性のパラドックス」が存在するからというのだ。簡単に見出せるような「強み」は模倣されやすく、模倣しづらい「強み」はそもそも見つけるのが困難だ…ということか。

3)について。個々の経営資源を分析するので、外部の人間が実施するのは困難である。組織の内部の人間であっても、そういった情報にくまなくアクセスするのは容易ではない。分析の単位が非常に細かいということだ。

強引に総括するなら、1)は外部環境を適格に予測することの困難さ、2)と3)は組織内部を正確に分析することの難しさ、ということに尽きるのではないか。特に、組織の内部の人間が客観的に自己の属する組織を分析するのは難しい。しかし、それを差し置いても、リソース・ベースト・ビューの発想は、組織のマネジメントの成否が競争優位を構築するうえで重要であるというのが持論である自分にとって、馴染みやすい考え方であるといえる。大原の中小企業診断士2次試験特訓講義からの伝聞になるが^^;、今年の「中小企業白書」では、「講演やセミナーなどを始め、社員に外部との交流を積極的にすすめる企業ほどイノベーションを果たす度合いが高い」というようなことが書かれているらしい。それは外部からの情報摂取に余念がないからというためもあるのだろうが、そうすることによって自社を客観的に分析することが出来るという側面もあるのではなかろうか。「敵を知り己を知れば百戦危うからず」という、孫子の名高い言葉が思い出される。


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ヘンリー・ミンツバーグの名前を知ったのは、やはりいま講読をすすめているバーニー『企業戦略論』の最初の章に出てくる創発戦略の図からだったと思う。だから、しばらく経営戦略論の研究者だと思っていた。むろん、それは間違いというわけではないだろうが、むしろマネジメントやリーダーシップの方に比重を置いた人のように思われる。経営戦略と内部環境を関連づけていると見られる点で、いかにも自分の関心を惹く人物だ(笑)。今年の中小企業診断士一次試験の企業経営理論の問題でも出て来たことが、その関心をいっそう掻き立てた。しかも、その問題が分からなかったということが、「ミンツバーグの理論についてもっと知らなければならぬ」という意識を著しく高めたのだったりして^^;。というわけで、ピーター・ドラッカー『企業とは何か』に次いで講読をすすめるべき本として、ミンツバーグの『MBAが会社を滅ぼす MANAGERS NOT MBAs』(日経BP社)を選んでみた。

『MBAが会社を滅ぼす』。とても刺激的なタイトルだ。しかし、原題を見るかぎり、この邦題はちょっと誇張が入ってないかい?という印象^^;。とは言え、この本の前半(PART1)は露骨に「MBAなんていらない」と題されている。また、今回扱う第1章の内容を見ても、たいへん啓発されるものがある。

ミンツバーグはマネジメントを、次の3要素がブレンドされたものだとする。

1)craft(経験)
2)art(直感)
3)science(分析)

原書を見ていないので判然としないが、これらの語の意味を見るかぎり、直接これらの語にカッコ内の言葉を訳語として宛てているわけではないように感じられる。そして、MBAに代表されるビジネス教育は3)scienceに偏りすぎているのだという。また、一般的なMBA課程は教育すべき対象を間違えており、その卒業者を誤解させ、組織に悪い影響をもたらすのだとする。そして、それぞれについて、詳細に論じていっているようだ。以後、具体的なところを追っていきたい。

PART 1 MBAなんていらない

第1章「間違った人間」

ミンツバーグは、「マネジメント」と「リーダーシップ」を同義語であると捉えているという。そして、これらは経験に基づかねばならないのだとする。だから、教育できるものではないというのだ。これを例えて、ミンツバーグは「マネジメント経験のない人にマネジメントを教えるのは、ほかの人間に会ったことのない人に心理学を教えるようなもの」だとする。

然るに、ビジネススクールにおいては、職務経験を重要視していないのが問題であるとする。ハーバード・ビジネススクールでは入学者に求める職務経験を2年、学卒で経験のない者でも一部受け入れることにしたという。ピーター・ドラッカーがハーバード・ビジネススクールで教えるのを断った際、同スクールのケースメソッド万能主義もその理由にあったというエピソードを思い出させる。ちなみに、この章では奇遇にもドラッカーのマネジメント3部作といわれる「現代の経営 The Practice of Management」からの引用が見られる。

先に挙げたマネジメントの3要素のうち、教えられるのはscienceだけでしかなく、その結果、職務経験に乏しい者は「マネジメント=分析」であると誤解する。そうミンツバーグは言う。また、マネージャーに求められる技術は業界や組織、さらには同じ組織でも別のポストであればそれぞれにおいて異なり、あるところで成功したメソッドが別のところで成功するとは限らない。だから教師やエンジニア、医者などとは事情が違うのだという。

自分の理解したところでいえば、組織というのは業界なり職種なり、構成する人員によってさまざまに異なるため、マネージャーとして力を発揮するためには実務経験を積んでその組織の業務に関する知識と、組織を構成する人員に対する理解がまず必要であり、マネジメントにおける適切な解は組織が違えばさまざまである。だから、マネジメントは教えられないのだということだ。

幾分極論であるという印象もないではないが、1年間「MBA課程」を売り物にした某ビジネススクールに通ってみて、教わった内容と自分のいま携わっている業務との乖離から来る違和感から生じた疑問に、ある意味肯ける部分があるようにも感じた。その点では、確かに啓発されるものがある。今後読み進めていくのが楽しみだ。翻訳も割と読みやすく、内容に沿っているように感じられる。


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2009年09月24日

第4部 産業社会の存在としての企業

本来ならこの第4部こそ、この本の最終的な結論の部であるが、こんにちのドラッカー観に基づいて読むと、やや尻すぼみな気がしないでもない^^;。企業と社会との関係についてがテーマとなっており、ドラッカーの関心あるテーマの中心がまだ社会に比重が置かれていることの反映であるようにも受け取れる。

企業とは社会のための道具であり、社会のための組織である。まずそう定義される。企業とは以下のようなものであるという。

1)法的には、国が社会のために存在の許可と権利を与えた存在。
2)政治的には、社会の要求を満たすべき組織の1つ。
3)経済的には、生産のための諸資源の集合体。

企業の利害と社会の利害は一致する。人材を発掘し、育成することは社会の利益である。経営の失敗による企業の業績の悪化や倒産は、経済の安定を損なう。企業は存続せねばならない。そして、企業の生産要素において、人間組織のみが代替の効かないものである。

企業と社会の関係を見るうえで、3つの必要な視点。

1)政策を左右するほどの企業が存在することは、社会にとってよいことか悪いことか?
2)生産をするうえで、利益を得ることと財・サービスが充分な効用を果たすことの両者が相容れないということが生じるのか?
3)自由企業体制のなかで利潤を追求していくことと、雇用を安定・拡大させていくことの関係をどう捉えるか?

第4部の3章は、この1)〜3)について1つづつを主たるテーマとして扱っている。

第10章「企業の存続と社会の利益」

まず、この章においては、上記のような導入部につづけて、1)について独占と規模を取り扱っている。

まず独占について。これまで企業の存続には独占が最も有効と考えられてきたが、独占とは社会の犠牲のもとに自らの利益を図る行為であり、否定されるべきである。また、「独占=利益」という図式は「需要が無限に近いのに対し、供給が限られている」という18世紀の現実を前提に考えられたものだ。しかし、こんにちにおいては、「需要には限りがあり、供給が過多である」。よって、利益を最大化するには、最小のコストで最大の生産をせねばならない。独占とは不経済な行為だ。市場という尺度がなければ効率をはかることは出来ない。

次いで規模について。規模が大きいことには弊害がある。しかし効率的である場合もある。また、規模が大きければ社会の安定に寄与するということもある。そして、経営陣が長期的な視野に立ち、社会との関係を考慮に入れるという面でも有利である。組織とマネジメントによって、規模が大きいことによる弊害を乗り越えることは可能だ。分権制と教育訓練。この両者が必要である。

第11章「生産活動の目的」

企業と社会との関係について、必要な3つの視点の2)。利益をどう位置づけるか。

単に財・サービスのため生産をするという考え方では、社会の要求と企業の要求は対立をせざるを得ない。経済活動とは、未来に対する賭けであり、リスクを伴う。ドラッカーは、利益をそのリスクに対する保険料であると捉える。また、生産を拡大し、雇用を安定させ、社会の健全性を保つためには利益を必要とするとも言う。

「利益が経済活動を評価する唯一の尺度である」と書くと、「儲からないとしても有意義な社会活動はあるはずだ」という反論が出るのは必至である。もちろん、ドラッカーはそれを否定しない。というよりも、そういった活動に費やすコストを賄うために、利益を得る活動を積極的に肯定すべきだと考える。だから、ここで言う「利益」とは、必ずしも一企業だけが儲かればいいというような狭義で言われるものではないのだろう。たびたびになるが、松下幸之助のこの言葉を思い出させる。

「企業は本業を通じて社会貢献をする。利益とは社会に貢献したことの証しである。多くの利益を与えられたということは、その利益を使ってさらなる社会貢献をせよとの世の声だ」

人間が建設的になりうるのは創造の本能によるが、創造の本能だけでは社会は成立しない。個々の人間の欲求と自己実現を社会の目的と結びつけるのが、組織の原理の果たすべきところである。「利潤を得る」という動機が、その手段として用いられるのは、ベストではないとしても有効である。逆に、利潤を求めない者は、しばしば人への支配力という有害な野心に向かう。ロベスピエール然り、ヒトラー然り。利潤は野心を社会的に建設的な方向へ向けさせる、唯一の方法である。

また、社会には多用な貢献を評価する尺度が必要であり、価格がその基盤になるとも捉える。価格なり利益といったものを絶対視するのは問題だが、社会をまとめ財を配分するという役割を果たすうえで、戦争よりもずっと建設的だ。

ここで計画経済に言及されるところが、時代背景を感じさせて面白い(笑)。価格なり利益を基盤とした市場では政治的な決定が出来ない。よって計画経済という形で両者を束ねるべきだ…という考え方を批判する。市場というものは無数の消費者の意思決定の集合体であり、それぞれの1人1人の行動がもたらすリスクは少ない。しかし、計画経済は少数の意思決定者によって運営されるものであり、リスクが大きい。計画経済は市場ではなく民主主義への攻撃だとする。市場がもたらす評価をもとに社会政策を決定するという形態が、より望ましい。

第12章「完全雇用の可能性」

企業と社会との関係について、必要な3つの視点の3)。雇用について。

ドラッカーは、自由企業体制において完全雇用を実現することを最高の善と見る。長期の失業は社会を破壊するとまで言う。これは世界恐慌及び第二次世界大戦を経験したことに起因するらしい。ここにもこの本の時代性を感じさせる。

ドラッカーは、不況の原因は捉えられないとしても、不況を治療する方法については多くの方法が分かっているとする。それは生産をすることである。ただし、それは消費財ではなく、資本財を生産することである。

いかに資本財の生産を確保するか。公共事業は候補たりえる。しかし、軍需産業に傾く危険があるし、投資を政府の手に握られることは、政府の健全性を損ねる。企業が完全雇用に取り組むに当たって、公共事業から学べることは2つ。資本財を生産することのほかに、経済活動の時間単位を1年ではなく7〜15年という、景気の循環に即したものとするべきであるということである。法人税制もそれに即して改革すべきだというが、それは現実的かどうか? いちおう、「毎年暫定的にある程度の金額を納税し、時間単位の最終時期に清算する」という方法を提案してはいるが。

1年単位の納税では、不景気の年に設備投資が出来ない。創業間もない企業に普通の企業同様の負担を課すこととなり、ベンチャー企業の保護にも適していないとする。減価償却費のみではこの欠点を補えないという。同時に、雇用確保のための内部留保は非課税にするべきだという提言もしている。仕事の替わりに金を与えているだけの失業保険、賃金構造を硬直化させる労働組合の賃金要求などの効果を疑っている。ベンチャー企業の育成を図り、経済の成長を可能にすることこそ、完全雇用政策を実現し、人的資源を豊かにする道だとする。

自由企業社会が柱とするべき経済政策は5つ。

1)雇用を安定させる。
2)集団による政治的行動が必要とされる分野を明確にする(ドラッカーはその例として「国防と治安維持」を挙げている)。
3)社会の安定と秩序のため、市場に制約をかける分野を定める(この例としては農業)
4)独占を禁止する。ただし、独占と規模の大きさを混同しないこと。
5)人と社会的資本を保全する。具体的にはベンチャーの支援。

経済活動は、経済の安定ではなく、経済の発展を目的とせねばならない。まだ未読の本についてとやかく言うのは避けねばならないが、このくだりを読むとき、頭に浮かぶのは同じオーストリア出身であるシュンペーターの代表的著作の「経済発展の理論」というタイトルである。両者を関連づける知見は寡聞にして知らないが、伝聞によるシュンペーターの思想には、確かにドラッカーとの親近性を感じないでもない。今後追究したいテーマだ。

前の章で言及されているが、市場と戦争は対極にあるとされる。自由企業体制と近代企業を基盤とする産業社会を実現し、生産資源を軍需産業に傾斜させないようにすることは、世界の平和と安定にも貢献する。完全雇用に関する章は、このような大胆な発展を得て結ばれている。

―――――――――――――

現行の版の「企業とは何か」ではこのあと「エピローグ」が付されているが、1983年刊の第6版にて書き下ろされたものであり、本論の補足というよりは、この本の後日談にあたる内容である。だから、内容的には幾分軽い要素も含むが、興味深い面もある。

本篇を見るかぎり、この本はGMに対する批判的な要素はさほど見られない。また、読者も同様に受け取ったようだ。だが、スローン会長を始めGM内部の人間の多くはこの本をGM批判の書と捉え、「左翼的な敵意を感じる」などとコメントもされている。労働組合への冷淡な評価にも拘らず、である。

その理由として、ドラッカーは次のように検証している。

1)GMが自然の法則であるかのように捉えていた経営政策を、ドラッカーが「環境の変化によって見直すべきもの」と捉えていたから。
2)ドラッカーの唱えている、従業員の主体性を重要視すべきであるという点が、経営陣のマネジメントする権利への干渉と考えられたから。
3)CSRに関わる責任の議論がGMの機能を超えたものだと受け取られたから。

この3点の指摘は、いずれも意味深い問題を含むものだと言えそうだ。

自分にとって、この「企業とは何か」という本は、「働くということについての意味づけで大きな力づけを得た」「いままで焦点の定まらなかったドラッカーという人の人物像のミッシングリンクを埋めるものとなった」という点で、特に収穫が大きかった。この読書メモをSNSの日記に連載するという試みは第三者の関心を惹いたとは言いがたかったようだが、個人的には得るものが多く、今後自分が学んでいく方向性を見出せたように感じている。

そのため、舞台をblogに変更して、同様の試みをしていくつもりでいる。続篇としては、この本を通じて気にかかるようになったシュンペーターの「経済発展の理論」の方にも捨てがたさをおぼえるが、ミンツバーグの問題の書「MBAが会社を滅ぼす Managers Not MBAs」(2004)を取り扱いながら、ビジネス教育について考えていきたい。

tosen4tany at 00:23コメント(0)トラックバック(0) この記事をクリップ!
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